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日々のSM
今回「SM」という作品の制作プロセスというものは、「作っては壊す」というものが前提となっていた様に振り返る。そのプロセスにおいて、フィクションとリアリティの解釈が作品制作の過程が進むにつれて常に移り変わり、以前の解釈を常に打ち消す様な解釈が生まれ、また更にその解釈を打ち消す様な解釈が生まれ…という風に作品制作が進むにつれ、フィクションとリアリティというものの掴み様の無さだけが浮き立ってくる様な実感だけを覚えた。しかしながら、それこそが「演劇」というものの表現欲求の先は決して充足され得ないものの中で充足しようとしているという「演劇のよくわからなさ」とでも言うべき魅力なのではないだろうか。そして今回の再演ではその「よくわからなさ」がより「わからない」所まで行く事が出来ればと考えているが、その「よくわからない」所まで行きたいという事は「よくわかりたい」という事であり、「よくわかりたい」為に「よりわからない」へ向かうという事自体「SM」なのだろうなと、改めて風呂場でぼんやり考えていたりする。 (相模友士郎)
演劇がひとまず俳優と観客の間で生起するものだとすれば、いつどのようにして俳優は俳優となり、観客は観客となるのか。あるいはそこでなぜ俳優と観客は共犯関係を結び、劇場と呼ばれる現実の空間がフィクションの場へと変容することを受け入れるのか。それらの問いを決して観念的に図式化するのではなく、実際に今、ここにある俳優の生身の身体や劇場の具体的空間を相手に試行錯誤する中から練り上げていった確かな感触が、それゆえの微妙な均衡とともに「SM」という作品を刺激的なものにしている。実体と影、自己と役柄、行為と言葉、出来事と情報、等々の関係が複雑な合わせ鏡のように乱反射しながら、演劇というもの(が存在すること)の不可思議さ、不可知さを浮かび上がらせていく展開に、むしろあっけらかんとした愉しさを覚えたと言ってもいい。その構造には、その場での偶然の思いつきが決定的なものへと反転していく創作現場のプロセスもまた反映していたのかもしれない。
ところで、今回の再演作品の選考はすんなりとは進まなかった。結果として「鈍突」と「SM」の二作品を優秀作品として選び、現実的条件から「SM」のみの再演ということになったが、とりわけ「SM」をめぐっては、審査にあたった教員の間でも激しい真剣な議論が交わされた。作品を高く評価する者もそれに疑問を投げかける者も、教員というより同時代の表現者や批評家として看過ごすことのできない、良くも悪くも「問題含み」の何かをそこに感じとっていたのである。再演はその真価を改めて問うための絶好の機会となるだろう。 八角聡仁(批評家、映像・舞台芸術学科教授)
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