experiment
京都造形芸術大学 舞台芸術研究センター上演実験シリーズvol.10
笠井叡独舞公演「花粉革命」
振付・構成・演出・ダンス 笠井叡
長唄 杵屋勝之弥連中  鳴物 六郷新之丞連中
ごあいさつ
 このたび京都造形芸術大学舞台芸術研究センターでは、上演実験シリーズvol.10といたしまして、笠井叡独舞公演『花粉革命』を開催する運びとなりました。
 当センターの本年度の上演テーマは「古典と現代」。5月末に開催いたしました上演実験シリーズvol.9『ふたつの茶壺』を皮切りに、11月にvol.10笠井叡独舞公演『花粉革命』、12月上旬にはvol.11現代能楽集氈wAOI/KOMACHI』(監修=野村萬斎、作・演出=川村毅)、vol.12大駱駝艦・天賦典式『魂戯れ』(振鋳・演出・美術=麿赤兒)と、歌舞伎発祥400年の年にふさわしい実験と冒険に満ちた改新作を発表してまいります。

再演/再考/ダンスの力
 土方巽、大野一雄とともに、日本発のオリジナル現代ダンス<舞踏>の草創期を担い、その後オイリュトミー、現代舞踊と様々なダンスに身をおきながら、現代も疾走を続ける笠井叡。『花粉革命』は、2001年4月に東京・世田谷のシアタートラムにおいて初演された作品です。初演当時、笠井叡の6年ぶりのソロ公演は、彼の原点である舞踏家としての強烈な印象を残しつつも、彼自身の肉体に刻まれた歴史を表出させ、現在進行形の踊りとして大変な評判を呼びました。
 舞台は水をイメージしての白い滝。作品の前半は長唄の「京鹿子娘道成寺」をバックに着物と鬘をまとって始まります。これは生命としての花粉のイメージです。長唄は切り取られて演奏され、そのはざまにコンピューターミュージックが流れ、現代社会における生命=情報化された生命が対極に表現されます。前半で衣裳が昇天し、後半部分では裸体に近い状態で、天の故郷を失った胎児のイメージから、真っ白な「海」の中の混沌=新しい生命を宿すイメージへと展開します。
 京都での再演にあたり、東京初演時にはなかった、長唄「京鹿子娘道成寺」生演奏による上演を行います。古典の曲を現代ダンス作品の一部に取り入れるという試みに対して、曲のもつ本来の解釈(様式美)からいかにして笠井の創造する「革命」に変換されるのかという問題を、古典を専門とする舞台監督(狂言方)の参加を得て再考していきます。また、関西の音響家・照明家とともに、初演とは違う劇場での新作的再演に臨みます。
 歌舞伎劇場である<春秋座>での『花粉革命』は、現代から未来へ移行し、そして全く新しい生命にふれる笠井流革命であり、「終りのないの供犠」。それこそが彼の魅せてくれる現在形のダンスの力です。
身体の内側から、人間が自分の生命そのものに働きかけることによって生ずる「革命」
……それは生命から最も遠ざかったところでなされる「終りのない供犠」である。
「花粉革命について」 笠井叡
 シアタートラムの独舞公演のタイトルに、最初に心に浮かんだのが「花粉」という言葉だった。少し恥ずかしかった。果たして自分の中に、「植物的な生命」あるいは「自然的な生命」をイメージする言葉とダンスを、「公演」という公の場において結びつけて表出する意図を持っているのか、と言うことに対して。
 その後「花粉」という言葉が退いて、「革命」という言葉が浮かび上がって来た。もうだダメだ。東洋においては「革命」という言葉は社会革命ではなく「天命が変わる」という意味だ。それは遺伝子操作や生命科学のような技術の側からの生命全体の革命ではなく、身体の内側から、人間が自分の生命そのものに働きかけることによって生ずる「革命」である。そこでこの二つの言葉を結びつけて「花粉革命」にした。
 ダンスほど直接「生命それ自体」からこみ上げて来る力に触れなければならない作業はないだろう。だからダンサーはダンスから「こみ上げて来る生命」をそぎ落としたいと思う。それは役者が生のままの感情表出を避けたいと思うことに共通している。
 けれども、ダンサーと言う直接生命に関わらざるを得ないものとして、遺伝子情報が生命の本質であるとは考えられない。それは生命の光の影、あるいは生命のひとつの現象である。生命は操作されるものではないから。

生命、革命されるもの
無機的生命が海中生命に変わる
海中生命が陸上生命に変わる
陸上生命が宇宙生命に変わる
そして宇宙生命がノノ.生命に変わる

 美しくも醜悪な情報化された私たちの身体。この身体はしかし供犠にささげられる。ダンスを通して。それは生命から最も遠ざかったところでなされる「終りのない供犠」である。花粉革命−無限の供犠。
*供犠:神が喜んで受納すると考えられる一定のいけにえをささげることによって、神と人の関係を成立させる宗教的・呪術的儀礼。くぎ。
[笠井叡 プロフィール]
  60年代、故土方巽、大野一雄と共に舞踏の創生期を築き、63年「犠儀」、65年「バラ色ダンス」など数々の記念碑的作品に出演。66年処女リサイタル「磔刑聖母」発表。71年よりダンス研究所「天使館」を主宰し、山田せつ子、山崎広太など、多くの優れた舞踏家を輩出する。79年オイリュトミー研鑚のため渡独、85年帰国後よりオイリュトミー公演を精力的に行なう。94年「セラフィータ」でダンス活動を再開。
 近年、97年の「カサイキサヌキカンパニー」、99年の「Yes,No,Yes,No」など、木佐貫邦子とのコラボレーションで、即興だけでなく振付作品を手懸け、ダンスの新たな展開を見せる。特に2001年1月のAkira Kasai ダンスユニット(出演:笠井叡+木佐貫邦子+近藤良平+安藤洋子+上村なおか)「Spinning Spiral Shaking Strobo」では、おのおののダンサーの魅力と潜められた資質を十二分に引き出す、全編精緻に計算された振付で大きな反響を呼んだ。
 また、99年から5人の若手女性ダンサーを振付けする「青空」シリーズを発表し、2000年の「青空Vol.2」では、チャイコフスキー作曲の「白鳥の湖」の現代振付に挑戦した。
最近の海外公演では、97年サンフランシスコ「人は肉体をたずさえて死者の世界へおもむくか?」、98年同地にレジデンスし製作した「Exusiai」、ローマ公演「Tenkyu」、2000年シカゴコロンビアカレッジでの「Tintura 2」がある。
 「花粉革命」は95年湘南台市民シアターで上演された「我が黙示録」以来、6年ぶりのソロ作品として、2001年シアタートラムにて初演。
 2002年、JADEの「病める舞姫」では、40年ぶりに大野一雄との共演が実現した。また振付作品として笠井叡×伊藤キムの『銀河計画』。2003年夏には、4人の女性ダンサー(山田せつ子+木佐貫邦子+ぺトラ・ファーメルシュ+アリーサ・カルドーナ)を振付ける「nobody Eve−誰でもないもののイヴ」が予定されている。

東京公演時(2001年4月 シアタートラム)のレビュー

――あらゆるものへの配慮をしりぞけ、もはや自意識の働かないぎりぎりの境界での乱舞。かたちになるものは一切ない。…(中略)…即興ということでは笠井に近いが、ここ数年の笠井は大野がいつもいうところの「命」を消去しながら、光を複雑屈折するプリズムのように無機質な身体を志向してきたように見えた。ところが『花粉革命』には「命」が見えてきた。笠井の体内で命の革命が起きつつあるのだろうか。
(石井達朗・舞踊評論家/2001年5月12日付朝日新聞夕刊)

――ダンサーとして生きていた歴史が、今という舞台に自在に紡ぎだされる。格好をつけず、失うものなど何もないというアナーキストの姿勢を感じる。前衛のダンサーとはかくあるべきものだろう。 しかし笠井叡がもっとも生き生きするのは、暗黒舞踏であり、即興ダンスである。暗黒舞踏とは、白塗りで日本の原点を踊るという形式ではなく、人や世界の暗部を明白に晒(さら)してみせる覚悟のようなものであり、笠井叡はいまそれをもっとも体現できているダンサーである。
(今野裕一・演劇評論家/2001年5月11日付公明新聞)

――連日立見がでた笠井叡の『花粉革命』でも、嵐のような拍手が沸き起こった。これは観客から笠井叡の冒険心、革新の構えに対する称賛で、強く激しい拍手には、観客の共感する意識が感じられた。…(中略)…彼は、瞬間の舞踏家である。飛翔し転回するどの瞬間も予測させない。そのどの瞬間にも意識をそそぎ破壊を繰り返す。すぐれた、真にすぐれた舞踏家である。
(長谷川六・舞踊評論家、東京ダンス機構/2001年6月WALK誌)

日時 2003年11月8日(土)17:00 開演(16:30開場)
※公演終了後、シンポジウムを開催いたします。
会場 京都芸術劇場 春秋座(京都造形芸術大学内)075-791-8240
料金

[一般]前売3,500円  当日4,000円
[学生&ユース(25歳以下)]前売2,500円  当日3,000円
※学生か年齢のわかるものをご提示ください
※全指定席
※未就学児童のご入場はお断りします

前売取扱 チケットぴあ 0570-02-9966(Pコード412-756)、0570-02-9999
舞台芸術研究センター 075-791-8240
JCDNダンスリザーブ http://dance.jcdn.org/
舞台監督 中田節(舞台企画アルファ)
照明 澳 義則(SFC)
音響

加藤陽一郎(SFC)

制作 魁文舎
協力 天使館
[主催・お問い合わせ]
京都造形芸術大学 舞台芸術研究センター 〒606-8271 京都市左京区北白川瓜生山2−116
Tel.075-791-8240 Fax.075-791-9438 E-mail info@k-pac.org
特別企画 【笠井叡ダンスワークショップ】
 京都で公開のダンスワークショップを行うのは、このたびが初めてです。
 私は、ワークショップをややパフォーマンスとして考えており、あまり前もってワークショップのためのプログラムをたてておりません。一期一会的に、その場で初めて出会う人々の身体の中から生まれて出てくるものを一番大切にしたいと思っています。
 いずれにしろ、一人の身体はその個人の歴史、さらには民族、地球の歴史までをも担っていると思います。そのような身体の時間性が、空間の中に立ち現れてくるような時間を共有したいと思います。
笠井叡
日時 11月9日(日)1:00pm〜4:00pm
会場 京都造形芸術大学 楽心荘
料金 3,000円  造形大生 1,000円
定員 30名
参加申込方法
[1] 以下3つの内、いずれかの方法で予約をしてください。
A. 舞台芸術研究センターで直接予約をする。
B. 舞台芸術研究センターへ電話予約をする。Tel 075-791-8240
C. JCDNダンスリザーブで予約する。 http://dance.jcdn.org/
[2]

当日、会場で受講料をお支払ください。

主催/問合せ

京都造形芸術大学 舞台芸術研究センター
〒606-8271 京都市左京区北白川瓜生山2-116
Tel.075-791-8240 Fax.075-791-9438 E-mail info@k-pac.org

関連インタビュー 笠井叡 Akira Kasai
笠井叡/ダンサー、舞踊家、舞踏家、踊り子、……etc.
空気の中に生命があって、生命そのものを食っていたい
――『花粉革命』は、2001年4月に東京・世田谷のシアタートラムで初めて上演された作品ですね。初演を終えたときの感想をお聞かせいただけますか。
笠井≫ 初演時、前半は長唄の「京鹿子娘道成寺」をバックにと同様の恰好で鬘をつけて、しかも踊りは即興で、最後に衣裳がばらばらになるというシチュエーションでした。後半はコンピューター音楽やロックなど現代音楽を中心に使って、踊りもそういう感じ。そのふたつがどういう風にむすびついているのか、見える感じが自分では全然つかめなくて、観客が非常に喜んでくれたのは分かりましたけど、正直言ってどうしてそんなに面白いのかよく分からなかった。その後、ニューヨークで再演をしているのですが、その時には何度もやっているから流れがみえてきて、ここをこうやるとこういう観客の反応があるっていうのもなんとなく分かってくる。これはいいか悪いかは別として、作品として完成していたという感じはありました。今回の春秋座公演の場合は、地方がつくとか、歌舞伎用の舞台だったりとか全然シチュエーションが違いますね。だからタイトルは『花粉革命』ですけど、再演というよりもニューバージョンという感じかな。内容、構成もけっこう変わるんじゃないかと思います。
――『花粉革命』という不思議なタイトルは、どのような思いから考えられたのでしょうか。
笠井≫ 私たちはご飯を食べないと生きていけないけれども、そうではなくて私は生命そのものを食べたいと思うの。空気の中に生命があって、直接生命を呼吸できるようなことがあればいいなあと。舞踊家の夢というか、そういう気持ちを作品にしたいと思っていたんです。
 「革命」とは、「命をあらためる」ということなんですが、人間は人間の体の中で命を生み出すことが出来るのではないか、と思うんです。経験的な言い方ですが、人間の身体は何にでもなるのね。宇宙より大きいものが人間だと思う。人間の心というのは、勇気をもって奥の奥まで見ようとすると、底知れない広さがあると思うんです。私の好きなドイツの詩人で、ノヴァーリスという人がいまして、彼は『花粉』という日記の中で、「ナイフで身体を傷つけたとき、その傷の感覚をずっと捨てずに奥の奥まで辿っていくと宇宙に行き着く」ということを書いているんです。それを読んで、「革命」という言葉と、「花粉」という言葉が結びついたのね。今は社会的にも「革命」という言葉があふれていて、それはいわゆる社会革命ではなくて、「命をあらためる」という意味においてよく使われている。だからこのタイトルは初演時から2年経ってより深められた感じがありますね。

根源的な存在(「京鹿子娘道成寺」の白拍子)に自分を置く
――作品の前半部分、長唄「京鹿子娘道成寺」をバックに踊られますが、この発想の根幹をお聞かせいただけますか。
笠井≫ これは結構まじめに考えると難しくてね……。「京鹿子娘道成寺」のテーマを、自分ではわりとまじめに捉えているつもりですが、歌舞伎や日本舞踊の方は私のような捉え方をしていないので、勝手な解釈だと思われるかもしれないけど……。
 前々から考えているんですが、女性のタイプには2種類あって、簡単に言えば娼婦型の女性と母親型の女性。例えば神話で娼婦型というのはギリシャではアフロディテとかダイアナなど。これらの女神はみんな神殿娼婦で、お参りにきた男の人に無償で体を提供する娼婦。もう一方の母親型とはギリシャ神話で言うとデメーテルなどの女神で、家庭を守っていくタイプ。これについては今年の夏に上演した『Nobody Eve』でも少し似たようなことを書いています。長唄の題材にはこの母親型のものが少ないんですよ。白拍子という、日本で言うと廓ものが圧倒的に多いんですね。
 昔から娼婦型の女神には「イシ」という名前がつくことが多く、例えばギリシャ神話でいうと、イシス、イシュタルという神がいます。日本でいうと「石」で、これらはみな鉱物神なんだよね。宇宙の中には鉱物神と植物神があって、植物はもちろん、鉱物も水晶が成長するように、生きているんです。一般に生命といって承認されているのは植物のほうですが、もっと古くには鉱物も生きているという思想があるんですね。それが娼婦型の神話の前提にあるんです。例えばアラビアの方にある宗教で、黒曜石を神様にするバール神など、そういった神話はたくさんあります。これらの鉱物神の話には不思議と死がないんですね。つまり、死体も最終的には土に還るから生きている、宇宙の中に死んだものは何もないという思想です。そこまで生命を深く捉えた神話が日本では後に、廓ものの中に流れているんです。日本の芸能、特に長唄の場合は、どちらかというと鉱物神的な生命に至ろうとするものが多いんです。道成寺も白拍子もので、主人公が神に仕える仕事をする修験者を好きになって寺まで追いかけていって、男が鐘に隠れたのを、蛇になって溶かすという話。これはかなり大事なテーマなんです。
 私は踊りをやる時に、自分を根源的なものに置かないと、踊れない。そういう存在として、今回は「京鹿子娘道成寺」の白拍子なんです。白拍子は、男性に女性的なものの無限の力を与え続けた存在であり、日本文化の構造においてはずせない、根源的な力を持っています。それは、社会とか生活の根底にあるもの、普遍性を持った人間のあり方なんです。これは実は、全ての人間が予感していることだと思う。こういう人たちの中から芸能は生まれてきているんですね。

体をもって、向こうの世界(死者の世界)を歩きたい
――作品解説(チラシ裏面に記載)の中で、「『花粉革命』とは生命からもっとも遠ざかったところでなされる無限の供犠」という風に定義されていますが、笠井さんにとって生命とはどういうイメージでしょうか。
笠井≫ 海中の中で生命が生まれ、陸に移行し、今度は陸から宇宙全体にまで広がっていくというように、生物というのは生命圏をどんどん変えていきます。広い意味で、宇宙は生命で満ち満ちているのね。パラダイスのような、生命のあふれたところへ人間は次第に移行していく。それは別の言い方をすれば、生も死もないようなところなんです。「生命」と「死」というのは本当はひとつ、裏表の関係です。ですから、死ぬというのは生命がないというのではなくて、「無限生命」なんですよ。私のイメージでは、死者というのは無限生命の中に移行していくっていう感じがあるんです。生きるというのは「限定生命」だから、飯を食べないと生きていられないように非常に不自由なんです。そういう意味では、一般に言う生と死というのは私の中ではひっくり返っているみたいなところがあってね。私は生きているほうが生命が弱い、つまり満たされていないと思う。そもそも男性と女性に分かれているということが既に自分が欠けている存在です。一緒になって初めて完結するというのは、欠乏している世界に私たちは生きているという感じがある。ところが死者というのは全て満たされているから死なんだよね。生命とは、生と死がひとつに結び合っているというイメージがあるんです。 
 これは私のものすごく儚い挑戦なんですが、体をもったまま死の世界へ行きたいって感じがするんですね。なかなか上手くいかないとは思っているんだけども……。肉体を捨て去った死というのは面白くないんです。体をもって、向こうの世界つまり死者の世界を歩きたい、という切な願望があってね。それで踊っているわけなんです。これホントなんですよ。あんまりこういう願望を持ってダンスをする人はいないから、「えー、そんなのが踊りなんですか」って言われるけれども(笑)。鉱物的生命というのはそうなんだよ。生も死もない。

カオスの中で体現されるエネルギーをダンスの中に流し込みながら踊りを作る
――いつごろから鉱物的生命のことを考え始められたのでしょうか?
笠井≫ これは話せば長いのだけど(笑)。要するに、生まれつき植物生命があまり好きでない。植物生命というのは、生と死という二元的な世界を行ったり来たりしているんですよ。人間社会で言うと、家庭を作り、家族を育て、おばあちゃんおじいちゃんが死んで、お葬式して、生と死を喜び悲しみ喜び悲しみ……、でしょ。そこには秩序があるんですよ。ところが鉱物生命というのは、無秩序なんです。生も死もない。そちらのほうが私にとっては謎深い。恐ろしいんですよそれは。言ってみればカオスの世界ですもの。もうひとつ、男性と女性と別れているのも窮屈な感じがするんですよ。自分のことも、肉体は男性だけれども、中身はとても女性だという感じを持っている。恋愛においても同じで、女性の裏側はとても男性的ですから……。一人の中にどちらの性もあるという感じかな。こないだのワークショップでもけっこうカオスの状態になっていましたよね、ああいう方が好きですね。全体がぐちゃぐちゃになっている状態。ああいう中で体現されるエネルギーをダンスに流し込みながら踊りを作っていく。そういうエネルギーを感じながら動いていく。

謎に満ちた肉体の奥の奥に入っていく――一個の身体の中に宇宙全体がある
――舞踏の草創期を故土方巽、大野一雄と共に走り抜け、その後も様々なダンスに身をおきながら現在のダンスに至る中で、『花粉革命』初演時のレビューにも「彼の原点は舞踏だ」「すばらしい舞踏家だ」という評価が多数ありました。笠井さんにとって、ご自分のダンスと舞踏との関連をどのように考えていらっしゃいますか?
笠井≫ 舞踏についてはいろんな考え方があるから限定はできないのですが、私の考えでは、土方さんや大野さんが作ったというよりも、もっと古い衝動だと思っています。あの時代に突然作られたんじゃなくて、大げさな言い方をすれば人類始まってからずっと舞踏的な生命の捉え方があったと思うんですね。私のカンでは鉱物的な生命に入ろうとするものは全部舞踏。植物的な生命の捉え方、例えば豊穣の祈りや子供が良く育ちますようにとか、死んだら悲しいといったドラマの中でのものは舞踏的なイメージがないのね。舞踏そのものは最もラディカルというか、やりたいことをやっている中で古典的なものを見出そうとするものだと思う。古典的なものというのは身体の中の生命的な力から発したものです。そもそも即興で作られた生ものが長年の間に洗練されて形になっていく。
 私の場合も、舞踏的な生命の捉え方をしていて、動きや形は結果の問題です。人間の内面の世界に入っていくと言葉の数だけ身体感覚が身体にうまれるんです。ダンサーは言葉を使わない分だけ身体感覚に頼ってしまうんですが……。ふつう言葉は社会を成り立たせる意味を持つものですけど、それにとらわれるとダメですね。人間の身体は宇宙より大きいなんて、考えられないでしょ。私のダンスは、そういった身体感覚を形にする作業なの。自分の中へ中へ入っていくと、突然視界が開けて、生命の海が広がる時がある。宇宙にある全てのものが自分の身体の中にあるという感覚。そうすると、日常生活をとりまくものが自分のことと思えなくなるのね。一個の身体の中に宇宙全体がある、というリアリティが自分の中にあるんですね。人間がはじめて宇宙全体を理解し、そして宇宙を作ったものと対峙できるというところまでいくには鉱物的生命に入っていかないと植物生命だけでは浅いんですね。
――体を動かして表現したときに悦びを感じるのはどのような時ですか?
笠井≫ 体はいつか目覚めないといけないんですね。表面の波はざわざわしていても海の底にゆっくりとした大きな海流があるように、体の中も波のようなものがあるんですね。体を支えている深い奥の海流に触れるというのは、目覚めることだと思う。体に向かっているとそういう目覚めが必ず来るんですよ。それが悦びというか、ああ、体ってこういうものなんだって思う。きっとそういうのは踊りの中でふっと突然に訪れるものでしょうね。宇宙よりも大きいのは人間の体ですよ。肉体ほど深いものはこの世にないですから。もっと簡単にいえば、体は不可思議なもの。コンピューターなんて何も複雑なことはなくて、何億台使っても肉体の能力にはとてもかなわない。今は機械文明がどんどん進んでいるから、世の中はそういう感じじゃなくなってきているけど……。肉体は、本で言うと何万ページもある本で、人間はその内の一ページくらいしか読まないで死んでしまうんだよ。ほんとに悲しい存在じゃないですか。我々が知っている部分は本当にわずかなんです。それを知るには、ダンスとは言わないけれども、自分の体にずっと向かっていって、何千ページもの本を読むこと。それは謎に満ちた迷宮のような肉体の奥の奥に入っていって、出てこれなくなるまで入っていくことなんですね。

生命の実体を捉える――生命の海をもう一度体の中に取り戻す
――『花粉革命』後半のイメージや、作品全体を貫くイメージをお聞かせください。
笠井≫ 後半は照明がブルーになって海の中に戻っていくイメージなんです。生命そのものの海のイメージが後半です。生命の海、宇宙全体が一種の生命の海みたいなもので、そういう中に還っていくというのが『花粉革命』のイメージですね。現代は遺伝子をコンピューターで操作するなど物質的なもので生命現象を捉えるような傾向にあります。私たちの社会生活はコンピューターに支えられていますから、それもひとつの現実ではあります。けれどそうではない生命の捉え方、もう一方のリアリティを私たちの社会生活にひっぱってこないと社会は豊かにならないと思うのです。一個の身体の中に宇宙全体があるというリアリティです。両方があって、人間が生きているという感覚を持ちたいと思う。
 この作品において、花粉というのは一種の生命のようなものです。『花粉革命』は、生命の海をもう一度体の中に取り戻すというイメージがあるんですね。そこではもう、植物性とか鉱物性とかはどうでもいいんです。生命の実体は決してDNAや顕微鏡では捉えられないし、それは、踊りでしかだせないなと思う。芸術は本来生命を生み出す力をもっているんです。人間一人一人の中には命をつかむ力があって、そういうものを観客の方と共有できる、そういう共通の磁場を作りたいと思います。
――今年で還暦を迎えられるそうですが、舞踏にとどまらず様々なダンスに身をおいて活動をされる中で生み出された『花粉革命』そのものが笠井さんのダンスの力として伝わるのではないかと思いました。そして、これからもまだまだ進化していかれるように思いますが、最後に、今後挑戦していきたいことをお聞かせいただけますか。
笠井≫ 私はソロダンスから始めたんですよ。ドイツに行くまではソロダンスしかやっていなかったんです。ドイツへ行ってから14年間舞台に上がっていなかったんですね。それで帰ってきてからは振付けをやったりデュオをやったりと、あんまりソロをやっていなかったんです。だから、抽象的ですけれども、これからはもうちょっとソロダンスに集中したいという感じはありますね。
(2003年9月 天使館にて/聞き手・構成:神前沙織〔舞台芸術研究センター〕)
京都造形芸術大学 舞台芸術研究センター
     〒606-8271 京都市左京区北白川瓜生山2-116 tel.075-791-8240 fax.075-791-9438 e-mail info@k-pac.org
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